鴻門之会|劉邦暗殺を企図した項羽の宴席劇

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楚漢戦争の発端において、天下統一をめぐる緊迫した駆け引きが繰り広げられた中、歴史に名を残す「鴻門之会(こうもんのかい)」が開催されました。

この会見はただの宴ではなく、楚の覇者・項羽が劉邦を亡き者にしようとした策略の場であり、結果的に漢の勃興を決定づける転機となりました。

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鴻門之会の意味

「鴻門之会(こうもんのかい)」とは、楚の項羽が劉邦を暗殺しようとした宴会、またその席を指します。「鴻門」は現在の中国陝西省にある地名です。

鴻門之会の使い方と例文

この語句は、表面上は友好を装っているが、実際には危険な意図が隠されているような会議や接待の場面を揶揄する際に用いられます。

  • 新任社長との会食に招かれたが、どうも鴻門之会のような雰囲気を感じた。
  • その和平交渉は一見友好的だったが、実態は鴻門之会だった。
  • 内部改革案を持ち出したとたん、鴻門之会のような会議に巻き込まれた。

鴻門之会の語源・由来|『史記 項羽本紀』に記された策略の宴

「鴻門之会」は、『史記 項羽本紀』に記されている楚漢戦争初期の有名な出来事に由来します。

紀元前206年、楚の懐王(後の義帝)は、項羽・劉邦両将に対して「先に咸陽に入城した者を関中王とする」との約束を下します。この詔命に従い、劉邦は関中攻略を急ぎ、ついに咸陽へ先に入城することに成功します。

しかし、咸陽に入った劉邦は、秦王子嬰を降伏させると、函谷関を閉じて兵を備え、後から到着する項羽軍の進入を拒もうとします。この行動が、楚軍総帥である項羽の強い怒りを買いました。

当時、項羽軍は40万ともいわれる兵力を擁し、軍の威勢も戦功も劉邦軍を遥かに凌ぐものでした。にもかかわらず、先に関中を制した劉邦の行動が、まるで覇権を狙う者のように映り、范増ら側近は「今討たずしていつ討つ」と暗殺を進言します。

こうして項羽は、咸陽近くの「鴻門」にて宴席を開き、劉邦を招待します。これが後に「鴻門之会」と呼ばれる策略の宴です。

宴席では、范増が何度も目配せと玉玦(ぎょくけつ)を掲げて項羽に暗殺の合図を送りますが、項羽は決断できません。事態を察した張良がこれを樊噲(はんかい)に伝え、樊噲は剣を帯びて席に乱入、項羽の前で堂々たる態度を取り項羽を圧倒します。

さらに、張良は項羽の叔父・項伯の取りなしを得て、劉邦の無事脱出を成功させます。

原文:
范増数目項王 挙所佩玉玦以示之者三 項王黙然不応
范増入謂項荘曰:「君王為人不忍 若属皆且為所擒」

書き下し文:
范増、数たび項王に目を送り、佩びし玉玦を挙げて以てこれを示すこと三たび、項王は黙然として応ぜず。
范増、入りて項荘に謂いて曰く、「君王、人の為にして忍びず。若ら属は皆且にこれに擒(と)られんとす。」

訳文:
范増は何度も項羽に目で合図を送り、佩びていた玉の環を掲げて知らせたが、項羽は無言のまま応じなかった。
范増は中へ入り、項荘にこう言った。「君主は優しすぎて人を斬れぬ性分だ。このままでは我らは皆、劉邦に捕らえられてしまうぞ。」

この歴史的な出来事は、後に漢王朝の興隆を導く転機となり、「鴻門之会」は単なる策略ではなく、運命を分ける宴として語り継がれています。

楚漢戦争に関わるその他の四字熟語

「鴻門之会」が語られる楚漢戦争期には、項羽や劉邦にまつわる多くの故事成語が生まれました。以下はその中でも特に関係の深い語句です。

鴻門之会の類義語・対義語

「鴻門之会」は固有の歴史的事件名であり、適切な類義語・対義語は日本語の辞書には掲載されていません。そのため本節の提示は控えます。

英語での表記と意味

英語表記 意味
Feast at Hongmen 鴻門之会
Hongmen Banquet 鴻門会見

鴻門之会とは?歴史の分岐を決した項羽と劉邦の宴席劇

「鴻門之会」は、単なる宴席ではなく、歴史の命運を左右した策略と忠誠、優柔と果断が交錯する場でした。

表面的には和やかに進む会談であっても、裏には殺意と駆け引きが潜むことの象徴として、現代でもビジネスや政治の場で喩えられることがあります。

この出来事を知ることは、人物の洞察力や危機管理の重要性を学ぶうえでも意義深いでしょう。

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