
為虎傅翼(いこふよく)は、中国戦国時代の思想書『韓非子』に見える故事成語です。
法家思想を大成した韓非子が、先行思想家である慎到(しんとう)の「勢(権勢・権力)」論を踏まえつつ、その危険性を指摘する文脈の中で用いた比喩表現に由来します。
単なる比喩表現にとどまらず、戦国期の統治思想、とりわけ「権力はいかに扱われるべきか」という政治思想上の核心を鋭く突いた言葉である点に、本語の歴史的意義があります。
為虎傅翼の意味とは|歴史背景から読み解く語義
為虎傅翼(いこふよく)とは、虎に翼を授けること、すなわち、もともと強大で危険な存在に、さらに権力や能力を与えてしまうことを意味します。
転じて、悪人や制御すべき勢力を助長し、かえって深刻な害を招く行為のたとえとして用いられます。強さそのものではなく、「不適切な対象に力を与えることの愚かさ」を戒める語である点が重要です。
為虎傅翼の使い方と例文|現代での用法と注意点
為虎傅翼は、すでに問題や危険性を抱える人物・組織に、さらに権限や資源を与えることへの警告として用いられます。
現代では、問題行動を繰り返す人物の重用、過激な思想を持つ勢力への無批判な支援、規制緩和による弊害などを指摘する文脈で使われることが多い語です。
- 問題の多い人物を重用するのは為虎傅翼にほかならない。
- 無制限の資金提供は、過激な団体にとって為虎傅翼となる。
- 規制を緩めすぎることは、不正業者に為虎傅翼の結果を招く。
為虎傅翼の語源・由来|『韓非子』難勢篇に見る人物像と歴史的背景
為虎傅翼の由来は、『韓非子』難勢(なんせい)篇において、「勢(権勢・権力)」の重要性と危険性が論じられる文脈の中にあります。
難勢篇ではまず、先行思想家である慎到(しんとう)=慎子(しんし)の説として、才能や徳そのものよりも、それを働かせるための「勢(地位・権力)」が決定的であるという見方が提示されます。いわゆる「飛龍乗雲」の比喩は、その核心を示す一節です。
しかし韓非子は、勢が強力であるがゆえに、それが不肖の者に渡った場合は国家に甚大な害を及ぼすと警告します。その危険性を端的に示す比喩として、古書『周書』の言葉「毋為虎傅翼(虎の為に翼を傅くること毋かれ)」が引かれ、さらに「不肖の者に勢を与えることこそ為虎傅翼である」と結論づけられます。

原文:
慎子曰「飛龍乗雲 騰蛇遊霧 雲罷霧霽 而龍蛇与螾蟻同矣 則失其所乗也
(中略)
周書曰「毋為虎傅翼 将飛入邑 択人而食之 夫乗不肖人於勢 是為虎傅翼也書き下し文:
慎子曰く「飛龍は雲に乗じ、騰蛇は霧に遊ぶ。雲罷み霧霽るれば、則ち龍蛇も螾蟻と同じきは、其の乗ずる所を失えばなり。」
(中略)
周書に曰く「虎の為に翼を傅くること毋かれ、将に飛んで邑に入り、人を択びて之を食らわんと。夫れ不肖の人を勢に乗ぜしむるは、是れ虎の為に翼を傅くるなり。」訳文:
慎子は言う。「飛龍は雲に乗り、伝説の蛇は霧に遊ぶ。しかし雲が消え霧が晴れれば、龍も蛇もミミズやアリと同じになる。それは、拠り所(勢)を失ったからである。」
(中略)
『周書』に言う。「虎に翼を与えてはならない。もし与えれば町へ飛び込み、人を選んで食い殺すだろう。徳や才のない者に権勢を与えることは、まさに虎に翼を与えるのと同じである。」
難勢篇が示すのは、「勢は統治に不可欠である」という理解と同時に、「勢は与え方を誤れば暴威となる」という現実です。為虎傅翼は、その二面性のうち、とくに“権勢が不適切な者に渡る危うさ”を一点に凝縮した比喩として提示されています。
為虎傅翼と同時代の人物・故事にまつわる関連語句
春秋・戦国期の思想・政治の世界では、統治や人の在り方を鋭く示す多くの故事成語が生まれました。
- 唯唯諾諾(いいだくだく)
|韓非子が厳しく批判した、権力に迎合する臣下の姿勢を象徴する語 - 安宅正路(あんたくせいろ)|孟子が説いた、人として・為政者として守るべき正しい道を示す思想的成語
- 晏嬰狐裘(あんえいこきゅう)|晏嬰が権勢に驕ることなく、長年同じ狐裘をまとい続けた逸話に基づく語。為政者に求められる節度と自制を象徴
- 晏子高説(あんしのこうぜつ)
|崔杼の専横に屈せず節義を貫いた、晏嬰の高潔な生き方を示す語 - 意気揚揚(いきようよう)|晏嬰の逸話に基づき、内面の慢心が態度に現れる様子を描写
- 安居危思(あんきょきし)|晋の魏絳が説いた、平時にこそ危機を思い備えるべきだという政治的戒めを表す
- 韋弦之佩(いげんのはい)
|魏の西門豹や趙の董安于が自らを戒めた故事に基づき、為政者の自己規律を示す語 - 按兵不動(あんぺいふどう)|趙簡子らの故事に基づき、軽率な行動を戒める政治的判断の重要性を表す
為虎傅翼の類義語・対義語|意味の広がりと対照概念
類義語
為虎傅翼と同様に、危険性を高める・悪い方向へ勢いを加えるという意味合いを含む語です。
| 語句(かな) | 意味 |
|---|---|
| 助長(じょちょう) | 悪い傾向や勢力をさらに勢いづけること |
| 為虎添翼(いこてんよく) | 為虎傅翼と同義 |
| 傅虎以翼(ふこいよく) | 為虎傅翼と同義 |
対義語
為虎傅翼とは対照的に、害や混乱を未然に防ぎ、力の行き過ぎを抑える意味合いを持つ語です。
| 語句(かな) | 意味 |
|---|---|
| 未然防止(みぜんぼうし) | 問題が発生する前に防ぎ止めること |
| 抑制(よくせい) | 行き過ぎや暴走を意図的に押さえること |
為虎傅翼の英語表記|歴史背景を踏まえた訳語
| 英語表記 | 意味 |
|---|---|
| to give wings to a tiger | 既に強い者に、さらに制御不能な力を与えること。 |
為虎傅翼に見る歴史的教訓と現代への示唆
為虎傅翼は、戦国時代の権力論を背景に生まれた、きわめて思想的な故事成語です。
韓非子は、慎到の勢論を踏まえながらも、権力が不適切な人物に渡ったときの破壊力を鋭く見抜いていました。その警告は、古代中国に限らず、現代の政治・組織運営にもそのまま通じます。
力そのものを否定するのではなく、「力の与え方」を問う――為虎傅翼は、その本質を静かに、しかし強く語りかける言葉です。
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