
「彼はこのプロジェクトに骨身をやつして尽くした」──そんな表現を耳にしたことはありませんか?
一見すると意味が通じそうにも見えますが、「骨身をやつす」という言い回しは、実は存在しない誤用です。
本来使うべきは「骨身を削る」。あるいは、意味は異なりますが、語構造が似ている「憂き身をやつす」と混同されたことで、このような誤った言い回しが生まれたと考えられます。
この記事では、「骨身を削る」と「憂き身をやつす」の正しい意味と語源、それぞれの使い方、そしてなぜ誤用が生じるのかを、社会人にもわかりやすく解説します。
「骨身を削る」と「憂き身をやつす」の意味と使い方
まずは、それぞれの慣用句がどんな意味を持ち、どんな場面で使うべきかを見ていきましょう。
骨身を削る(ほねみをけずる)
「骨身を削る」とは、身も心も削るようにして努力すること、苦労をいとわず物事に尽力することを意味します。
- 「骨身」は骨と肉体、
- 「削る」はそれをそぎ落とす
ことから、強い努力や自己犠牲のたとえとして用いられます。
使用例:
- 社員は会社再建のために骨身を削って働いている。
- 彼女は子どもを育てるために骨身を削るような日々を送った。
- 研究開発に骨身を削って取り組んだ結果、大きな成果を得た。
憂き身をやつす(うきみをやつす)
「憂き身をやつす」とは、恋愛・賭け事・芸事などに熱中するあまり、なりふり構わず打ち込み、身をやつしてしまうことを意味します。
単に「つらい境遇にやつれる」のではなく、夢中になった結果、生活を顧みず心身を消耗していくさまを表します。「憂き身」は「つらい身の上」の意もありますが、現代の慣用句としては「打ち込みすぎてやつれる」ことを中心に使われています。
使用例:
- 博打に憂き身をやつした男は、最後にすべてを失った。
- 恋に憂き身をやつして、日常生活がままならなくなった。
- 芝居に憂き身をやつした役者は、生活を省みず芸道一筋だった。
語源をたどる|それぞれの背景と成り立ち
骨身を削るの語源
「骨身を削る」という表現は、中世から近世にかけての文献にも見られる古い比喩表現です。
「骨身」は骨と肉体、「削る」はそれをそぎ落とすことから、身をすり減らすほど努力するさまを示しています。
『沙石集』や『太平記』などの古典文学にも類似表現が登場し、江戸時代には庶民の言葉として定着したと考えられます。
憂き身をやつすの語源
「憂き身をやつす」は、室町時代以降の連歌・和歌・草子・浄瑠璃などに登場する表現で、熱中や執着の果てに身なりをかまわず没頭する姿を描く語として広まりました。
「憂き身」は「つらい身の上」という語義もありますが、慣用句としては「自分を粗末にしながら何かにのめり込む」様子を指します。
恋愛、遊興、芸道などにおいて、自らを削ってまで打ち込む姿を描写する表現として、江戸文学などで頻繁に用いられました。
なぜ「骨身をやつす」と誤用されるのか?

「骨身をやつす」という言い回しは、文法的にも意味的にも正しくないにもかかわらず、聞き覚えがあるという人は少なくありません。これは、「骨身を削る」と「憂き身をやつす」という2つの慣用句を、うろ覚えのまま組み合わせてしまったことで生まれた混成誤用です。
両者は意味・使用場面ともに異なりますが、「骨身」「憂き身」といった“身を削る”語感や、「削る/やつす」という動詞の意味が曖昧になりやすいため、記憶の中で融合されてしまうのです。
このような誤用が広まる背景には、次のような理由が考えられます。
- 「骨身」「憂き身」という語構成の共通性
- どちらも「身を削る」イメージがあるため、文脈的に違和感が少ない
- 日常での使用頻度が低く、記憶があいまいなまま使ってしまう
とはいえ、「骨身をやつす」は辞書に載っておらず、言葉としての整合性も取れないため、正しい日本語としては使用すべきではありません。
まとめ|言葉の力は正確さから
「骨身を削る」は、努力や自己犠牲の美徳を表す言葉であり、「憂き身をやつす」は、熱中のあまり身をやつすという退廃的なニュアンスを持った表現です。一見似たような印象を持つかもしれませんが、意味・背景・使いどころはまったく異なります。
誤用の「骨身をやつす」は、耳慣れた響きでも、正確な日本語として認められていません。
言葉は信頼を築く道具でもあります。うろ覚えのまま使うのではなく、意味を正しく理解したうえで適切に選びたいものです。
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