
亥豕之譌(がいしのか)とは、文字の書き誤りや書写の誤伝を意味する四字熟語です。
その由来は、戦国時代末期に秦の丞相であった呂不韋(りょふい)が編纂した『呂氏春秋』の「察伝」に見える故事にあります。
孔子の高弟として知られる子夏(しか)が、歴史書の誤写を見抜いた逸話から生まれた言葉であり、古代中国における文献伝承の難しさと、事実を見極める重要性を伝えています。
亥豕之譌とは?誤写や誤記を表す四字熟語
亥豕之譌(がいしのか)とは、文字の形が似ているために生じる「書き写しの誤り」や「文字の誤記」を意味する言葉です。
「亥」と「豕」は字形が似ているので誤りやすいこと、「譌」は誤りという意味から。
文献研究から日常の誤記まで――亥豕之譌の使い方
主に学術研究や古典研究、歴史資料の校訂などで用いられます。また、誤字や誤記が原因で内容が変わってしまった場合にも使われます。
- 古写本を比較した結果、亥豕之譌による誤記が多数見つかった。
- この記録の年代の違いは、亥豕之譌による伝写ミスと考えられている。
- 校訂者は亥豕之譌を一つひとつ検討して原文の復元を試みた。
- 古典の解釈を誤らないためには、亥豕之譌への注意が欠かせない。
子夏が見抜いた「三豕渡河」の誤り――亥豕之譌の由来

出典は『呂氏春秋』慎行論(しんこうろん)「察伝(さつでん)」です。
『呂氏春秋』は戦国時代末期、秦の丞相であった呂不韋(りょふい)が多くの学者を集めて編纂した書物です。その中の「察伝」篇では、人から伝え聞いた情報を鵜呑みにせず、真偽を慎重に見極めることの大切さが説かれています。
故事の主人公は孔子の高弟として知られる子夏(しか)です。子夏が晋へ向かう途中、衛の国で歴史書を見ている人が「晋師三豕渉河(晋の軍が三頭の豚とともに河を渡った)」と読んでいるのを耳にしました。
しかし子夏は、その内容に疑問を抱きます。軍事行動の記録として「三匹の豚が河を渡る」という記述は不自然であり、本来は干支の日付を示す「己亥」であるはずだと考えました。
そこで子夏は「三豕」ではなく「己亥」であろうと指摘します。後に晋で原記録を確認したところ、実際に記されていたのは「晋師己亥渉河」であり、子夏の判断が正しかったことが証明されました。
原文:
子夏之晉過衛 有讀史記者
曰「晉師三豕涉河」
子夏曰「非也 是己亥也 夫己之與三相近 豕之與亥相似」
至於晉而問之 則曰「晉師己亥涉河也」
辭多類非而是 多類是而非
是非之經 不可不分書き下し文:
子夏、晉に之かんとして衛を過ぐるに、史記を讀む者有り。
曰く「晉の師三豕河を涉る。」
子夏曰く「非なり、是れ己亥なり。夫れ己と三の相近く、豕と亥と相似たり。」
晉に至りて之を問えば、則ち曰く、「晉の師己亥に河を涉るなり。」
辭に非に類して是なるもの多く、是に類して非なるもの多し。
是非の經は分かたざるべからず。訳文:
子夏が晋国へ向かう途中、衛国で歴史書を読んでいる人が「晋の軍が三匹の豚とともに河を渡った」と読んでいた。すると子夏は「それは違う。己亥の日に河を渡ったという意味だろう。『己』と『三』は形が近く、『豕』と『亥』はよく似ているからだ」と言った。晋に着いて確かめると、実際に記録は「晋の軍が己亥の日に河を渡った」となっていた。
言葉には、一見誤りのように見えて実は正しいものがあり、反対に正しく見えて実は誤っているものもある。だからこそ、物事の真偽を慎重に見分けなければならない。
上記の逸話は「己」と「三」、「亥」と「豕」がよく似ていたために生じた誤写でした。この逸話から、「亥豕」は文字の誤りを象徴する言葉となり、「亥豕之譌」という四字熟語が生まれたのです。
また『呂氏春秋』はこの故事を通じて、文字の誤りだけでなく、伝聞や情報の誤伝にも注意すべきだと説いています。
現代においても、資料の引用ミスや情報の拡散による誤解は少なくありません。亥豕之譌は、情報を検証する姿勢の大切さを教える言葉として今日まで受け継がれています。
亥豕之譌とあわせて読みたい戦国時代の故事成語
掩耳盗鐘(えんじとうしょう)|呂不韋が編纂した『呂氏春秋』に収録された有名な寓話。滅亡した范氏の鐘を盗もうとした男が、自分の耳を塞げば他人にも聞こえないと思い込んだ故事から、自分に都合の悪い現実を見ないふりをする愚かさを戒める- 一上一下(いちじょういちげ)|呂不韋が集めた諸家の知恵を収めた『呂氏春秋』に由来する言葉。物事が上がれば下がり、満ちれば欠けるという変化の道理を示す語
延頸挙踵(えんけいきょしょう)|呂不韋編纂『呂氏春秋』に見える故事に由来。首を長く伸ばし、つま先立ちになってまで待ち望む様子から、人々が優れた君主や望ましい知らせの到来を切望することを表す言葉- 一字千金(いちじせんきん)|呂不韋が『呂氏春秋』完成後、内容に一字でも増減できた者に千金を与えると掲げた故事に由来する。文章や言葉の価値の高さを象徴する著名な四字熟語
睚眥之怨(がいさいのうらみ)|范雎が受けた屈辱と復讐の逸話に由来する言葉。わずかな恨みでも忘れず報いようとする執念深さを表し、戦国時代の政争の激しさを物語る- 遠交近攻(えんこうきんこう)|范雎が秦の昭王に献策した有名な外交戦略。遠方の国と結び近隣国を攻略する政策で、秦の統一事業を支えた重要な方策として知られる
烏白馬角(うはくばかく)|秦王政が人質の燕の太子丹に対し「烏の頭を白くし、馬に角を生やすことが出来るのなら帰国を許す」と無理難題を吹っかけられた故事に由来- 一士諤諤(いっしがくがく)|秦で変法を進めた商鞅に対し、趙良が迎合せず率直に諫言した逸話に基づき、多数の追従より一人の正論の重みを示す語
誤写や誤伝を表す類義語・対義語
類義語
文字の誤写や伝写上の誤りを表す言葉として用いられる四字熟語
| 語句(かな) | 意味 |
|---|---|
| 魯魚亥豕(ろぎょがいし) | 文字の誤写や誤刻のたとえ |
| 三豕渡河(さんしとか) | 誤写や誤伝のたとえ |
| 魯魚之謬(ろぎょのあやまり) | 文字の書き誤りのたとえ |
| 烏焉魯魚(うえんろぎょ) | 字形の似た文字の取り違え |
| 魯魚章草(ろぎょしょうそう) | 書体の違いによる誤写のたとえ |
対義語
正確な記録や誤りのない伝承を直接表す定着した対義四字熟語は存在しない
| 語句(かな) | 意味 |
|---|---|
| 正確無比(せいかくむひ) | きわめて正確であること |
| 一字一句(いちじいっく) | 一文字もおろそかにせず正確に扱うこと |
亥豕之譌を英語で表記すると
| 英語表現 | 意味 |
|---|---|
| scribal error | 写本上の誤写 |
| copying mistake in manuscripts | 文献伝写の誤り |
| textual corruption | 本文の誤伝・改変 |
亥豕之譌が教える「情報を疑う力」
亥豕之譌(がいしのか)は、『呂氏春秋』察伝に記された子夏の故事に由来する四字熟語です。
「亥」と「豕」のような似た文字の取り違えから生じる誤写を意味し、文献の伝写ミスや記録の誤りを表す言葉として用いられます。しかし、この故事が伝えようとしているのは単なる誤字の話ではありません。子夏は記録の内容そのものを吟味し、不自然な点から誤りを見抜きました。
情報が瞬時に拡散する現代社会においても、伝聞や文章をそのまま信じるのではなく、自ら検証し真偽を確かめる姿勢が求められています。亥豕之譌は、正しい知識を見極める大切さを今に伝える故事といえるでしょう。
当サイトでは、四字熟語や故事成語を中心に400本以上の記事を執筆しています。古代中国の史書や古典に基づく資料を確認し、意味や由来、使われた背景をできるだけ分かりやすく解説しています。
コメント