
文章における一文字の違いが、時に人物の運命を左右することがあります。
古代中国の歴史書『春秋』には、評価を明言することなく、語句の選び方によって賛否を示す表現技法が用いられました。これを「春秋筆法」と呼び、その核心をなす概念が「一字褒貶(いちじほうへん)」です。
特にこの思想を理論として体系化したのが、西晋の名将・杜預でした。彼の軍略と学識の融合は、四字熟語に命を吹き込む力を持っています。
一字褒貶の意味
一字褒貶(いちじほうへん)とは、たった一字の使い分けによって、人を賞賛したり非難したりすることを意味します。
- 「褒」はほめること、
- 「貶」はけなすこと。
特に、儒教の五経のひとつ『春秋』に見られる記述様式を象徴する語句であり、言葉の表面にあらわれない評価が、わずかな字面に込められているのです。
一字褒貶の使い方と例文
「一字褒貶」は、文章や記録において、明言を避けながらも微妙な表現の差で評価をにじませる文体について語る際に用いられます。歴史書や報道、文学批評などの文脈で多く使われます。
- この評論文には、作者の一字褒貶による人物観が巧みに反映されている。
- 『春秋』の記述は一見簡潔だが、一字褒貶の技法により政治的評価が読み取れる。
- 現代のニュース記事にも、一字褒貶に似たニュアンスの操作が見られることがある。
語源・由来|『春秋左氏伝集解』と杜預の見解
「一字褒貶」という言葉は、儒教経典『春秋』に見られる記述手法、いわゆる春秋筆法を象徴する表現です。その解釈と注釈を体系化した人物が、西晋の政治家・軍略家である杜預(とよ)です。
杜預は三国時代末期、魏から晋にかけて仕えた名門の出身で、兵法・戦略に通じた知将として「杜武庫(とぶこ)」の異名で称えられました。「武庫」とは兵器庫を意味し、杜預の頭脳に数々の戦略が蓄えられていたことを讃えたものです。
なかでも最大の功績は、晋の武帝・司馬炎の命により呉討伐の総司令官として出陣し、孫晧を降伏に追い込み、三国時代を終焉に導いたことです。この歴史的な統一事業を成し遂げた後、彼は儒家としても名を遺し、『春秋左氏伝集解(しゅんじゅんさしでんしっかい)』を著しました。
その序文には、『春秋』の記述法について次のような慎重な見解が記されています。
原文:
春秋雖以一字爲褒貶 然皆須數句以成言書き下し文:
春秋は一字をもって褒貶をなすといえども、皆、数句をもちいて言を成す。訳文:
『春秋』は一字によって人物評価をしていると言われるが、実際には複数の句を用いて文章全体でその意味を構成している。
つまり杜預は、「一字で評価が決まる」という解釈をやや誇張とみなし、文章全体の構成や文脈を読み取ることが重要であると説いています。それにもかかわらず、後世の儒者たちはこの精緻な筆法を「一字褒貶」と名付け、春秋筆法の象徴として語り継ぎました。
魏・西晋の政治家・文化人に関連する語句
春秋筆法や一字褒貶の精神を理解する上で、同時代や関連する政治家・文化人たちの言葉や行動にも注目すると、より深い洞察が得られます。以下に関連する四字熟語を紹介します。
破竹之勢(はちくのいきおい):杜預が呉征伐で見せた、止められないほどの猛進ぶりを表す言葉- 黄絹幼婦(こうけんようふ):曹操・楊脩にまつわる、美文のなかに隠された言葉遊びの妙
- 清聖濁賢(せいせいだくけん):徐邈が酒に酔いながらも賢者として讃えられた、寛容な用人観を表す語
抽薪止沸(ちゅうしんしふつ):賈詡が用いた、対立を根本から解消する戦略的な思考を示す言葉。- 浮雲翳日(ふうんえいじつ):孔融が才をもってなお権力に押しつぶされた、時代の不条理を象徴する語
明眸皓歯(めいぼうこうし):曹植・甄氏をめぐる詩情豊かな描写から生まれた、美しさと哀切を讃える語- 鶴立企佇(かくりつきちょ):曹植・曹彪兄弟間の文通から生まれた、再会を待ち望む高貴な感情を表す言葉
一字褒貶の類義語・対義語
類義語
| 語句 | 意味 |
|---|---|
| 春秋筆法(しゅんじゅうのひっぽう) | 史書『春秋』で用いられた、遠回しに賛否を表す記述手法 |
| 微言大義(びげんたいぎ) | 簡潔な言葉の中に大きな道理や評価が込められていること |
対義語
| 語句 | 意味 |
|---|---|
| 衆口一致(しゅうこういっち) | 多くの人の意見が一致し、人物や事象に対する評価が揃うこと |
| 満場一致(まんじょういっち) | 会議や評議の場で、出席者全員の意見が一致すること |
英語表記と意味
| 英語表記 | 意味 |
|---|---|
| Implicit Praise or Criticism by a Single Word | 一語によって賞賛または非難をほのめかすこと |
| Judgment in Wording | 語句選択による評価や意味の操作 |
杜預が体現した「言葉に宿る評価」の重みを知る
「一字褒貶」は、文章表現の奥深さを語るだけでなく、時の為政者や思想家が言葉にいかに重い責任と意図を込めていたかを教えてくれます。
杜預という、戦場を制し、歴史を読み解いた人物が遺したこの概念は、現代においても私たちが言葉を使う姿勢に警鐘を鳴らしているのかもしれません。
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